目次
ミャンマー

- 共和制国家。首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)。
- イギリスから独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦、通称ビルマ。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、人口は5441万人(2021年)
- 19世紀に3度にわたる英緬戦争でコンバウン朝が滅びた後はイギリス植民地となった。1886年にイギリス領インド帝国の一州とされたが、1935年にはインドと分離された。第二次世界大戦中に日本の占領を受け、ビルマ国としてイギリスから独立したが、日本の敗戦で連合国に再占領され、イギリス植民地に戻った。その後英植民地体制崩壊の流れの中で、パンロン会議を経て1948年に英連邦に参加せず、ビルマ連邦共和国として独立。
- 独立後
- 1962年のクーデター後、ビルマ社会主義計画党のネ・ウィンの独裁政権となる[3]。1974年に国名をビルマ連邦社会主義共和国と改名。1988年に民衆の民主化運動でネ・ウィン体制は崩壊したが、これを危惧したミャンマー国軍がクーデターを起こして軍事政権を設立し、国名をミャンマー連邦に改名した[4][5]。
- 独立してからのほとんどの期間、ミャンマーは横行する民族紛争に巻き込まれ、無数の民族グループが世界で最も長く続いている内戦の一つに巻き込まれてきた。この間、国際連合をはじめとするいくつかの組織は、一貫して組織的な人権侵害を報告してきた[6][7][8]。
- 2010年の総選挙で軍事政権が正式に解散し、2011年には名目上の文民政権が発足した。これにより、アウンサンスーチーや政治犯の釈放とともに、同国の人権記録や対外関係が改善され、貿易などの経済制裁が緩和された[9][10]。また国名をミャンマー連邦共和国に改名した[4][5]。しかし、政府の少数民族への扱いや民族反乱への対応、宗教的な衝突への批判が続き[11][12]、2015年に行われた画期的な選挙でアウンサンスーチーの党が両院で過半数を獲得したが、ミャンマー軍は依然として政治に大きな影響力を持ち続けた。2021年2月1日、ミャンマー軍はアウンサンスーチー国家顧問と大統領を拘束し、非常事態を宣言した。軍は政権が国軍トップのミン・アウン・フライン最高司令官に「移譲された」とし、政権を奪取したと発表した(2021年ミャンマークーデター)
- イギリス統治時代
- →詳細は「英緬戦争」および「イギリス統治下のビルマ」を参照
- イギリス人が見たシュエダゴン・パゴダ(1825年)
- 英緬戦争、19世紀に起こったイギリスとビルマ王国の戦争
- 植民地時代の旗(1937年 – 1948年)
- 一方、コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする3度に渡る英緬戦争を起こした。国王ザガイン・ミン(英語版)(在位:1819年–1837年)治下の初期には、英緬間に緩衝国家としてアーホーム王国(1228年–1826年)が存在していたが、ビルマのアッサム侵攻(英語版)(1817年–1826年)によってビルマに併合され、アッサムの独立が失われると、英緬国境が直接接触するようになっていた。ビルマは、インドを支配するイギリスに対してベンガル地方[注 7]の割譲を要求し、イギリス側が拒否すると武力に訴えて第一次英緬戦争(1824年-1826年)が勃発した。ビルマが敗れ、1826年2月24日にヤンダボ条約(英語版)が締結され、アッサム[注 8]、マニプール、アラカン、テナセリムをイギリスに割譲した。
- イギリスの挑発で引き起こされた1852年の第二次英緬戦争で敗れると、ビルマは国土の半分を失い、国王パガン・ミン(英語版)(在位:1846年–1853年)が廃されて新国王にミンドン・ミン(英語版)(在位:1853年–1878年)が据えられた。イスラム教徒のインド人・華僑を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族(カレン族など)をキリスト教に改宗させて下ビルマの統治に利用し、民族による分割統治政策を行なった。インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が軍と警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされた。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族(カレン族など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。下ビルマを割譲した結果、ビルマは穀倉地帯を喪失したために、清から米を輸入し、ビルマは綿花を雲南経由で清へ輸出することになった。
- 1856年から1873年にかけて中国の雲南省・シップソーンパンナーでパンゼーと呼ばれる雲南回民(チン・ホー族(英語版))によるパンゼーの乱が起こり、雲南貿易が閉ざされた結果、米をイギリスから輸入せざるを得なくなった。1858年から1861年にかけて新首都マンダレーを建設して遷都。イギリス領インドと印僑の反対で雲南問題は遅れていたが、1885年7月にイギリス側も芝罘条約を締結して解決し、雲南・ビルマ間の国境貿易が再び許可された。1885年11月の第三次英緬戦争で王朝は滅亡。1886年6月、英清ビルマ条約(中国語版)でイギリスは清にビルマの宗主権を認めさせると、ビルマはイギリス領インドに併合されて、その1州となる。国王ティーボー・ミン(在位:1878年–1885年)と王の家族はインドのゴア州ボンベイの南に近いラトナーギリー(英語版)に配流され、その地で死亡した。
- 建国の父アウンサン(1940年代)
- ビルマ人の対英独立運動は第一次世界大戦中に始まり、1929年の世界恐慌以後若い知識層の間に広まった。1930年には、タキン党が結成された。また、タヤワディ地方では農民が武装蜂起を行い、Saya San rebellionと呼ばれる反植民地運動が下ビルマ全域に広がったが、1931年半ばに鎮圧された。1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領となり、アラカンは返還されたが、アッサム・マニプルはインド領(インド独立後に分割され、7姉妹州と呼ばれる)となった。1939年、タキン・ソーがビルマ共産党 (CPB)を結成した。
- 日中戦争の激化に伴い、ビルマは蔣介石政権をイギリスなどが支援する「援蔣ルート」の一つとしても使われた。1941年12月、日本はイギリスやアメリカ合衆国などに対して開戦(太平洋戦争)。日本陸軍は南方作戦の一環として、タイ王国進駐に続いて英領ビルマに進撃した(ビルマの戦い)。
- 1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐し、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。
- しかし1944年の独立一周年記念の席上でアウンサンは「ビルマの独立はまやかしだ」と発言。 1944年のインパール作戦の失敗など日本の敗色が濃厚と見るや、1944年8月に秘密会議で反ファシスト人民自由連盟(AFPFL、1945年-1962年)が結成され、タキン・ソー率いるビルマ共産党、アウンサン率いるビルマ国民軍、ウー・ヌ率いるthe People’s Revolutionary Party (PRP)[注 9]が三派合同した。1945年3月27日、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。連合国軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。1946年2月、ビルマ共産党が、内部抗争の末にAFPFLを離脱し、タキン・タントゥンの率いるビルマ共産党(CPB)から、タキン・ソーの率いる赤旗共産党が分裂した。
- 独立と内戦
- →詳細は「ミャンマー内戦」を参照
- 1947年7月19日にアウンサンがウー・ソーの傭兵によって暗殺された後、AFPFL(パサパラ)をウー・ヌが継いだ。1948年にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立。初代首相には、ウー・ヌが就任した。独立直後からカレン人が独立闘争を行うなど、政権は当初から不安定な状態にあった。現ミャンマー連邦共和国政府はその建国をビルマ連邦が成立した1948年としており、ビルマ国との連続性を認めていない一方で、ミャンマー国軍については、1945年3月27日のビルマ国および日本への蜂起をもって建軍とし、この日をミャンマー国軍記念日としている。
- 1949年、国共内戦に敗れた中国国民党軍の残余部隊(英語版)(KMT/NRA)がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。CIAが物資や軍事顧問団を援助し、タイへのアヘンの運び出しも行った。ヌ政権は国際連合で中華民国と米国の策動に抗議した。一方で政権は中華人民共和国と連携し、シャン州の一部に中国人民解放軍および国軍部隊を展開し、1950年代半ばまでに国民党軍(KMT)勢力を一掃した(中緬国境作戦)。しかし、シャン州は依然として半独立状態が続き、独立意識の高いワ族やシャン族、コーカン族など諸民族を下地として、都市部から排除されたビルマ共産党(CPB)が黄金の三角地帯の麻薬産業を支配下において、事実上の支配を継続した。一方、ロー・シンハン(羅星漢)のKa Kwe Ye (KKY)[注 10]が、ビルマ共産党(CPB)に対抗させる狙いを持つネ・ウィンの後押しで結成された[36]。また、中国国民党残党から独立したクン・サ率いるモン・タイ軍も独自に麻薬ビジネスを行なった他、ビルマ共産党に対する攻撃も行なった。
- ヌ首相の仏教優遇政策は、キリスト教徒の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力(麻薬産業を背景にする北部シャン州と、独立志向の強いカレンなど南部諸州と概ね2つに分けられる)、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。
- 軍事政権時代
- ネ・ウィン将軍(1959年6月8日)
- 1958年10月27日、ウー・ヌからの打診を受けたネ・ウィン将軍のもとで暫定内閣(英語版)(1958年-1960年)が組閣された。1960年2月、総選挙でウー・ヌが地滑り的な勝利を収め、4月4日に連立内閣を組閣した。1960年12月、ベトナム戦争(1960年-1975年)が勃発。
- 1962年3月2日にネ・ウィン将軍がクーデターを起こし、ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)を結成して大統領(1962年3月2日–1981年11月9日)となり、ビルマ式社会主義を掲げた。ネ・ウィンは、中立を標榜しつつ瀬戸際外交を行ない、アメリカとのMAP協定を破棄し、アメリカの国民党軍(KMT)への支援をやめさせ解散させる代りに、ビルマ共産党 (CPB) の麻薬ルートに対する軍事行動を約束し、軍事支援を取り付けた。1966年から始まった中国の文化大革命の影響がビルマに及び、1968年9月24日にビルマ共産党 (CPB) は、タキン・タントゥンら幹部が暗殺され、中国の影響下に入った。
- 1973年8月、ロー・シンハンが、シャン州軍(SSA)に協力した容疑でタイに拘束された。[36]この時のロー・シンハンとクン・サの闘争を「アヘン大戦争」と呼び、完全に掌握したクン・サは「麻薬王」と呼ばれた。1974年にビルマ連邦社会主義共和国憲法が制定され、ネ・ウィンは大統領二期目に就任(ビルマ連邦社会主義共和国)。1976年に中国の最高権力者である毛沢東が死去すると、支援が減らされたビルマ共産党 (CPB) は、シャン州のアヘンが最大の資金源となった為、コーカン族・ワ族の発言力が増大した。1980年、ロー・シンハンは恩赦で釈放された。1981年にネ・ウィンが大統領職を辞した後も1988年までは軍事独裁体制を維持したが、経済政策の失敗から深刻なインフレを招く等、ミャンマーの経済状況を悪化させた。
- 1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、ネ・ウィンは7月にBSPP議長を退く(8888民主化運動)。同年9月18日に政権を離反したソウ・マウン国軍最高司令官率いる軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度ビルマ連邦へ改名した。総選挙の実施を公約したため、全国で数百の政党が結成される。軍部は国民統一党を結党し体制維持を図った。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。1988年1月、ビルマ共産党 (CPB) 内部で、インド系上層部とワ族・コーカン族の下部組織との間で武力闘争が起こり、上層部が中国へ追放されてビルマ共産党が崩壊し、1989年にワ州連合軍が結成された。この時、キン・ニュンが、利用価値を見いだしたロー・シンハンを派遣して停戦調停を行なった。
- 1989年6月18日に軍政側はミャンマー連邦へ国名の改名を行った。1990年5月27日に実施された総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権としてビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を樹立した。
- 1992年4月23日にタン・シュエ将軍が国家法秩序回復評議会議長兼首相に就任。軍事政権は1994年以降、新憲法制定に向けた国民会議における審議を断続的に開催していた。同1994年6月から中国が大ココ島(英語版)を賃借し、中国はレーダー基地と軍港を建設した。こうした中国の海洋戦略は、バングラデシュやスリランカ、モルディブ、パキスタンなどへの進出と合わせてインドを包囲する「真珠の首飾り作戦」と呼ばれている。1997年11月、国家法秩序回復評議会(英: State Law and Order Restoration Council、略称:SLORC)が国家平和発展評議会(英: State Peace and Development Council、略称:SPDC)に名称変更した。2000年9月、アウンサンスーチーが再び自宅軟禁された。2002年12月、ネ・ウィンが死去。
- 2003年8月、キン・ニュンが首相に就任。キン・ニュンは就任直後に民主化へのロードマップを発表し、保守派と対立。2004年10月、和平推進派のキン・ニュン首相が失脚して自宅軟禁された。
- 2007年ミャンマー反政府デモ
- 後任の首相には、保守派のソー・ウィンが就任。同年、中国・ビルマ・パイプラインの協議が中国との間で開始され、翌2005年に中国石油天然気(PetroChina)との間で契約が成立し、中国のミャンマー進出が加速した。この緬中関係では、キン・ニュンの庇護の下でホテル経営を行っていたロー・シンハン(羅星漢)率いるアジア・ワールド(英語版)社が独占的な契約を結んでいった。2005年11月、政府機関がヤンゴンから中部ピンマナ近郊に建設中の行政首都への移転を開始し、2006年10月に行政首都ネピドーへの遷都を公表。2007年9月27日、APF通信社の長井健司が反政府デモ(サフラン革命)の取材中に射殺された。
- 2007年10月12日にソー・ウィン首相が死去したことに伴い、軍出身のテイン・セインが2007年10月に首相へ就任すると、軍政主導の政治体制の改革が開始される。2008年5月、新憲法案についての国民投票(英語版)が実施・可決され民主化が計られるようになる。2008年5月2日、サイクロン・ナルギスがエーヤワディー川デルタ地帯に上陸し、甚大な被害をもたらした。
- 2010年10月、国旗の新しいデザインを発表[37]。
- 選挙と民主化
- →詳細は「ミャンマー民主改革(英語版)」を参照
- 2010年11月には新憲法に基づく総選挙が実施される。また、政府はアウンサンスーチーの自宅軟禁が期限切れを迎えると発表し、総選挙の終了直後に自宅軟禁が解除された。2011年3月30日、テイン・セインは総選挙の結果を受けて召集された連邦議会の議決を経て大統領に就任。同月国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、その権限は新政府に移譲された。11月、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) は政党として再登録された。
- ただしミャンマー国軍は、2011年の民政移管後も連邦議会の4分の1の議席をあらかじめ国軍に割り当てられることや、同国で最も権力のある省庁を支配する権限を憲法で保障されることなどによって裏から政治権力を維持し続けた[38]。
- 2015年11月8日、民政復帰後では初めてとなる総選挙が実施され、NLDが圧勝した。NLDは党首のアウン・サン・スー・チーの大統領就任を要求したものの、憲法の規定と国軍の反対によってそれはかなわず、次善の策としてスー・チー側近のテイン・チョーを自党の大統領候補に擁立した。ティンチョーは2016年3月10日に連邦議会で大統領候補に指名され、3月15日には正式に大統領に選出、3月30日には連邦議会の上下両院合同会議で新大統領就任式が行われた。ミャンマーで文民大統領が誕生するのは54年ぶりで、半世紀余に及んだ軍人(及び軍出身者)による統治が終結した[39]。さらに、NLD党首のアウン・サン・スー・チーが国家顧問、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握ったことにより、新政権は「事実上のスー・チー政権」と評されている。
- 宗教上の対立
- ミャンマーの紛争地域(1995年 – 現在)
- ミャンマーのムスリム(イスラム教徒)の起源は一様ではなく、古くは1000年ほど前に遡るところからのインド(現在のバングラデシュを含む)人漂流民、あるいは16世紀以降の諸王朝における戦争捕虜、新しいところでは19世紀から20世紀前半のイギリス植民地時代にインドから流入した労働者など、その事由は様々である[40]。
- 宗教上の比率としては4%程度と低いものの、独自のコミュニティ形成などにより、実際の存在感はこの数字以上、というのがミャンマーにおける一般的な見方である。また地域的には、とりわけラカイン州における比率が高く、同州内にはムスリムが多数派という町もある。
- 長らく続いた軍事政権下では、宗教上の対立は表面化してこなかったが、2012年6月8日にはラカイン州でムスリムのロヒンギャと仏教徒との対立が激化(ラカイン州暴動(英語版))。2013年3月20日にはメイッティーラでも死者が多数出る暴動や放火が発生、政府により非常事態宣言が出されている[41]。
- ロヒンギャ問題
- 2016年のミャンマー国軍によるイスラム教徒の虐殺、民族浄化が続いており、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)により非難されている[42]。2016年以降、軍部によるロヒンギャ虐殺の被害者数が6千人以上の月もあったことが報道されている[43]。
- 2017年8月25日には、反政府武装組織アラカン・ロヒンギャ救世軍がラカイン州内の治安組織を襲撃。軍の大規模な反撃を契機に、数十万人規模の難民がバングラデシュ側へ流出した[44]。同年9月、アウンサンスーチー国家顧問は、国連総会への出席を取りやめ国内の混乱収拾にあたることとなった[45]
- 軍部クーデターで再び軍事政権に
- →詳細は「2021年ミャンマークーデター」を参照
- 2020年11月に総選挙が実施され、スー・チー率いるNLDが改選476議席の8割を超す396議席を獲得し、ミャンマー国軍系の最大野党連邦団結発展党(USDP)は33議席の獲得に留まった[46]。ミャンマー国軍によるムスリム系少数派ロヒンギャの虐殺疑惑に直面する中でもスー・チー率いるNLDが高い人気を維持した形となった[38]。しかし軍部はこの選挙結果を不服とし、裏付ける証拠はほとんどないにも関わらず「不正選挙が行われた」と主張した[46]。
- 総選挙後の初の議会が開かれるはずだった2021年2月1日、軍部は軍事クーデターを起こし、ウィンミン大統領やスー・チー国家顧問を拘束。ミン・アウン・フライン国軍総司令官が全権を掌握したと宣言した[38]。翌2日には軍事政権として国家行政評議会が設置されたが[47][48]、その閣僚にはUSDPの主導で旧軍政下の2011年に発足したテイン・セイン政権での元閣僚の登用が目立つ[49]。
- 国内ではクーデター直後から民主化を求めるデモ活動(2021年ミャンマークーデター抗議デモ)が行われている他[50]、クーデターの正当性を認めない連邦議会議員が連邦議会代表委員会(CRPH)を通じて事実上の臨時政府を設置しようと試みた[51]。これに対し、軍事政権は力によってクーデターに反対する活動を弾圧しようとしており、治安部隊の発砲によって非武装の民間人に死者が多数出ている[52]。だが、反クーデター勢力は4月16日に国民統一政府(NUG)、次いで5月5日に国民防衛隊(PDF)を設立して軍事政権に対抗する姿勢を崩しておらず、ミャンマー内戦の激化が懸念されている[53]。
- クーデターを受け、国外ではアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国、日本、インド、国際連合、欧州連合(EU)が軍部に対しスー・チーらの解放と民政復帰を求める声明を発表した[54]。その後、軍部の弾圧により抗議デモへ参加した市民が大勢死傷したことを受け、アメリカとEUはミャンマー軍関係者に対する制裁を開始。これに対し軍政の報道官は記者会見で、今後ミャンマーは中国等の近隣5か国と関係を強化し、価値観を共有することで欧米には屈しないとする決意を表明した[55]。
- 政治
- 国家顧問であったアウンサンスーチー
- 国家行政評議会議長兼大統領代行であるミン・アウン・フライン
- →詳細は「ミャンマーの政治」および「ミャンマーの内閣(英語版)」を参照
- この節の加筆が望まれています。
- ミャンマーは大統領を元首とする共和制国家であったが、2021年ミャンマークーデターにより、国家行政評議会議長を事実上の国家指導者とする軍事政権となっている。
- ネ・ウィン将軍が、1962年に軍事クーデターを起こし、憲法と議会を廃止して実権を握って以来、他の政党の活動を禁止する一党支配体制が続いていた。
- 軍政以前の議会は、一院制の国民議会(英語でPeople’s Assembly、ビルマ語でPyithu Hluttaw、人民議会とも訳す)。485議席。議員は、民選で任期4年。前回選挙は、1990年5月27日に投票が行われ、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) 392(81%)、シャン諸民族民主連盟 (SNLD) 23を獲得、国民統一党 (NUP) 10、その他諸政党が60の議席を獲得した。しかし、軍事政権はこの選挙結果を認めず、政権の移譲を拒絶し続けた。その為、NLDなどの反軍事政権勢力は、1990年にビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を組織し、軍事政権への対抗勢力として活動していた。1993年には新憲法制定のための国民会議が招集されたが、NLDはボイコットした。
- 1988年に民主化運動が高揚した際に、軍事クーデターを決行して1000人以上の国民を虐殺し弾圧を加え、翌1989年にはアウンサンスーチーを軟禁、さらに翌年の1990年にはアメリカ合衆国に上述のビルマ連邦国民連合政府が設立されている。そのトップはアウンサンスーチーの従兄弟のセイン・ウィン(Sein Win)であった。その後、軍事政権は1994年から2007年にかけて、新憲法制定に向けての基本原則や内容を審議する国民会議を断続的に開催してきた。
- 2007年9月仏教僧を中心とした数万人の規模の反政府デモが行われ、それに対し軍事政権は武力による弾圧を行い、日本人ジャーナリスト・長井健司を含める多数の死傷者を出した。2007年10月24日、民主化勢力に対し強硬な対応をとってきた国家平和発展評議会 (SPDC) 議長および国家元首であったタン・シュエと長らく行動を共にしてきたテイン・セインが新首相に就任。前首相ソー・ウィンまで続いていた軍主導の政治体制の改革が、テイン・セインの下で開始される。2008年5月10日及び同月24日に、新憲法案についての国民投票が実施・可決され、民主化が一歩一歩と計られるようになる。当時国家元首であったタン・シュエは表向き「私は一般市民になる、民主政権なのだから」と発言している[注 11]。
- 2010年2月13日、政府は最大野党・国民民主連盟 (NLD) の2003年5月から拘束されていたティン・ウ副議長の自宅軟禁を解除した[57]。同年2月15日、国連人権理事会のトマス・オヘア・キンタナ(Tomas Ojea Quintana)特別報告者がミャンマーを訪れ、自宅軟禁中のアウンサンスーチーとの2009年2月以来3度目となる面会を求めた[58]。4月26日、テイン・セイン首相は軍籍を離脱し、29日に連邦団結発展党を結成。10月21日、国旗を新しいデザインに変更すると発表[59]。11月7日には2008年の新憲法に基づく総選挙が実施され、連邦団結発展党が8割の得票を得て勝利宣言を行った。11月に政府はアウンサンスーチーの軟禁期限を迎えると発表し、13日に軟禁状態が解除された。拘束・軟禁は1989年から3回・計15回に及んだ[60]。
- →「2010年ミャンマー総選挙」も参照
- 2011年1月31日、ネピドーで総選挙後初の連邦議会が開幕。3月30日、テイン・セインはミャンマー大統領に就任。軍事政権発足以来ミャンマーの最高決定機関であった国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、権限が新政府に移譲された。これにより軍政に終止符が打たれた形となったが、新政府は軍関係者が多数を占めており、実質的な軍政支配が続くともみられた[61][62]。軟禁状態を解かれたアウンサンスーチーは、政治活動の再開をめぐり政府との軋轢もあったが、7月になり両者の対話が実現、国家の発展のため協力し合うことで合意[63]。10月12日には政治犯を含む受刑者6359人が恩赦によって釈放された[64]。11月4日、テイン・セイン大統領は、政党登録法の一部改正(服役囚に党員資格を与えないとした条項の削除)を承認[65]。また2008年憲法の「順守」を「尊重する」に緩和した。11月25日、国民民主連盟 (NLD) は全国代表者会議を開き、長年認められなかった政党(野党)としての再登録を完了した。年内にも行われる国会補選に参加することを決めた。
- その後、2016年3月30日に国民民主連盟が選出したティンチョーが54年ぶりの文民大統領に就任した。
- 2021年2月1日、軍事クーデターが発生しミャンマー国軍総司令官が全権を掌握した[66]。
- 軍事
- 式典でのミャンマー陸軍(2010年)
- →詳細は「ミャンマー軍」を参照
- ミャンマー国軍は1942年に創設されたビルマ独立義勇軍をその起源とし、国軍最高司令部、陸軍司令部、三軍情報司令部、空軍司令部と海軍司令部などからなる。現有兵力は約41万人で、陸軍37万5千人、海軍1万6千人、空軍1万5千人からなる。この他に警察部隊7万2千人と民兵3万5千人が存在する[83]。陸軍は13の軍管区を中心に編制されている。海軍基地、空軍基地が各6個ある。長年、志願兵制であったが、2011年に徴兵制が敷かれた(詳細は不明)。
- →「ミャンマー内戦」も参照
- 1950年代に国共内戦に巻き込まれた経験から対外的な軍事同盟締結を拒否し、原則的に外国に対して軍事基地を提供していない。ただし、中国は例外で、1994年6月から大ココ島(英語版)を賃借しており、中国はレーダー基地と軍港を建設している。この中国の海洋戦略は真珠の首飾り作戦と呼ばれ、アメリカ・英国・インドのインド洋における制海権に対して挑戦するものとの見方もあるが、中国にとってもポートスーダンとのシーレンを守るエネルギー戦略上の拠点となっている(中国・ビルマ・パイプラインを参照)。
- 近年ではこの中国の支援に対抗する形で、小規模ながらインドからも航空機や中古戦車の装備の導入が始まっている。
- 1990年代までは「反共」を標榜する独自の社会主義であるビルマ式社会主義を取っていたため、旧東側諸国からの支援はほとんど行われず、西側諸国にしても南ベトナムのようなケースと異なり限定的に装備の提供を行ってきた。このため、1980年代までは「黄金の三角地帯」対策として供与されたアメリカの装備(M101榴弾砲、UH-1汎用ヘリコプター、AT-33COIN機、ターボスラッシュ農業機―ケシ畑への除草剤散布に使用―など)を中心にしていた(この装備供与は麻薬取締局を擁するアメリカ国務省が主体となって行われており、当時のネ・ウィン政権に不信感を抱くCIAは反発していたとされる)。1990年代以降はアメリカからの支援は断絶状態となった。
- 代わって台頭しつつあるのが中国やロシア、インド、ベトナム、イスラエル、シンガポール(制裁によって直接製造国からサポートできなくなった旧西側製装備の修繕など)であり、J-7やQ-5、MiG-29等の導入はその表れである。さらにラングーン事件以降冷え切っていた北朝鮮との関係が1996年頃から軍事・政治面で改善した結果、野砲・ロケット砲などの武器購入や基地建設の技術支援交流や軍人交流訪問等が行われている。その一方で、中国はワ州連合軍などのミャンマー・中国国境に展開する反政府勢力への支援も継続しているといわれている。
- また、外交関係が不安定であることから、古くから軍備の国産化が進んでいる。既に自動小銃(ガリルやH&K G3等)や弾薬、暴徒鎮圧用の軽装甲車などは国産での調達が可能と言われる。海軍が保有しているコルベットもミャンマーにて建造されたものである。
- ミャンマー軍のヘルメットは迷彩柄で、形はアメリカ軍がかつて採用していたPASGTヘルメットで(通称フリッツヘルメット。同型のヘルメットを軍で使用している中国からの輸入であると考えられる)あり、ヘルメットの中央部に白い五角星があしらわれている。
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