11『義務について』(紀元前44年)
著者紹介
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キケロ
- マルクス・トゥッリウス・キケロ
- ラテン語: Marcus Tullius Cicero
- 紀元前106年1月3日 – 紀元前43年12月7日
- 共和政ローマ末期の政治家、弁護士、文筆家、哲学者
- キケローとも
- ギリシア哲学の西洋世界への案内人
- 哲学者としてはラテン語でギリシア哲学を紹介
- プラトンの教えに従う懐疑主義的な新アカデメイア学派から出発
- アリストテレスの教えに従う古アカデメイア学派の弁論術、修辞学を評価
- 自身が最も真実に近いと考える論証や学説を述べる
- 『義務について』はラテン語の教科書として採用され
- ルネサンス期にはペトラルカに称賛され、エラスムス、モンテスキュー、カントなどに多大な影響を与えた。
- アリストテレスのトピックスに関して『構想論』『弁論家について』『トピカ』の三書を著し, 後のボエティウスによるその概念の確立に大きく貢献している。
- キケロの名前に由来するイタリア語の「チチェローネ」という言葉は「案内人」を意味する
社会を滅ぼす思考
知らない人への義務
共通の利害を無視して知らない人との関係を害することは、社会を滅ぼす思考です。身内であろうと見知らぬ人であろうと、共通の利害は存在するので、その点では万人に対して平等な思考と行動をすることで社会の営みを助ける人間でいられます。
自分の一部は人のモノ
人間はお互いの為に生まれてきた社会的動物です。自分の全てが自分のモノではありません。自分の所有する時間や労働力の一部を、何の対価もなしには一切提供しないという姿勢は、この精神に反するものであり、自己中心的で利己的で、非社会的な思考と行動です。
公共の益
個人がなすべきことは単純です。公共の益に資するものを提供することで、持ちつもたれつの関係を築くことです。
徳にかなう
徳にかなうものは全て有益であるとキケローは言いますが、徳とはいったい何でしょうか。人の理性が公の利益をもたらすような思考し行動することだと考えられますが、徳の実体はイメージ上のものであり、明確な定義は難しく、まして徳にかなっているかどうかを厳密に判定することはムリがありかもしれません。どうしても主観的な判断をするのが人間ですから、公益というものを客観で見極めることも難しいでしょう。何が人の為か、常に悩み迷い続ける必要があり、また、覚悟が求められます。
順境の節度
順境であるほどに、人は高慢で尊大になりがちです。逆境よりもむしろ順境にこそ大きな危険が隠れているものです。
大義と行動
行動を起こすにあたり、大義名分が要求されるのはそれなりに大きな行動を起こすときです。人が何かしようとするとき、その行動が他者に影響を与えるものであるほど、公共の益に資する大義名分、つまり納得できる理由が必要になります。逆に言えば、納得させられるなら大抵の行動が可能になるということでもあります。
平静と自由
感情に飲み込まれない平静さを保てることができて、はじめて自由を維持できます。逆に感情に流されると思考と行動は自由を奪われます。感情が自分のものであれ他者のものであれ、また想像される世間一般の感情であれ、それにたいして平静を保てない時、個人の自由は自ら放棄されます。
行為と準備
どのような行為も、熟慮して抜かりのないよう準備しなくてはなりません。また行為を行う理由も明示できることは必要です。
外交の基本
矛盾した基準
早く見つけて、遅く行動する。粘り強く接して、あっさりと引き下がる。これらは外交のコツともいうべきもので、矛盾した内容でもあります。しかし矛盾しているからこそ偏りや執着がなく、もっともよい状態に落ち着くことが可能になります。
本性に沿う
人間には本性があり、個性があります。それに沿った行動をするべきであり、沿わない行動には無理が出ます。自分が何をしているのか、それが自分の本性に法っているのかを自問するべきです。他人の本性を模倣しても適正な思考や行動はできません。
12『論語』(紀元前5世紀)
孔子の弟子たちが孔子の死後約400年かけて孔子の教えをまとめたのが『論語』。
著者紹介
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孔子
- こうし/くじ
- 英: Confucius [kənˈfju.ʃəs]
- 紀元前552年または紀元前551年 – 紀元前479年
- 春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。
- 氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。
- 孔子は尊称。
- ヨーロッパでは孔夫子(夫子は先生への尊称)の音訳”Confucius”の名で知られている。
- 四聖人に数えられる。残り3人は釈迦、キリスト、ソクラテス。
- 身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、仁道政治を主張した。
- 約3000人の弟子
- 身の六芸に通じる者として七十子がいた。
- 高弟は孔門十哲と呼ばれその才能ごとに四科に分けられている(そのため、四科十哲とも呼ばれる)。
- 徳行4(論語古義によると徳行は、言語・政事・文学の三者を兼ねる)顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、
- 言語2宰我・子貢
- 政事2冉有・子路
- 文学2(学問のこと)子游・子夏
- 子路と孔子のやり取りが論語のなかでは1番多い。
- 曾参(曾子)は、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる。。
- 孔子の死後、儒家は八派に分かれた。
- 孟軻(孟子)は性善説を唱え
- 荀況(荀子)は性悪説を唱え
- 前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばし国教化された。
- 1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。
- 近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し「孔子」がブランド名として活用されている
シャーマニズム
- シャーマニズムとはシャーマンを中心とする宗教形態
- 精霊や冥界が信じられている。
- 霊の世界は物質界よりも上位
- シャーマンは、トランス状態に入って超自然的存在(霊、神霊、精霊、死霊など)と交信する
- シャーマニズムは思想としても解釈される。広義には地域を問わず同様の宗教、現象、思想を総合してシャーマニズムと呼ぶ。
仁
- 親愛の情
- 優しさ
- 儒教「五常の徳」のひとつ。
- 古代から近代に至るまで東アジアの倫理規定の基盤。
- 儒教的社会秩序(礼)を支える心のあり方。
交換様式ABCD
交換様式A:物々交換
- 原始社会の原理
- 贈与とお返し
交換様式B:納税と再分配
- 封建社会の制度
- 税や年貢を支払う
- 見返りとして保護を受ける
- 公共事業や福祉などを通じて再分配を受ける
交換様式C:価値交換
- 資本主義社会の制度
交換様式D:相互扶助
- 交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える交換様式。
- 自由な個人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出す
- 共同体的拘束や国家が強いる服従に抵抗する
- 階級分化と貧富の格差を必然的にもたらす交換様式Cを批判し、否定する。
- 孔子もまた交換様式Dを開示した
固執しない
予定どおり
ものごとを予定通りに進めようとすると無理が生じます。自分が緻密な予定を立てて行動しても、周囲はそれに合わせてくれるわけではありません。必ず予期せぬ事態が起こって予定は狂います。大切なのを最終的に何がしたいのかを明確にすることで、それを達成する期間や手順に固執する理由はないのです。
美徳を広める
政治が社会に美徳を広める働きをすべきだと孔子は説きました。罰や褒賞で人を制御するよりも、人のあるべき生き方を示す政治を広めようとしています。
13『省察』(1641)
著者紹介
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デカルト
- ルネ・デカルト
- 仏: René Descartes
- 1596年3月31日 – 1650年2月11日
- フランス生まれの哲学者、数学者。
- 合理主義哲学の祖
- 近世哲学の父。
- 「我思う、ゆえに我あり」。考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した
- 「自然の光(理性)」を用いて真理を探求
- すべてを信仰も根ざして考えており、著書『方法序説』においても神の存在証明を試みている。
- 当時学術的な論文はラテン語で書かれるのが通例であった中で、デカルトは『方法序説』を母語であるフランス語で書いた。その後のフランス文学が「明晰かつ判明」を指標とするようになったのは、デカルトの影響が大きい、ともいわれる。
破壊と創造
人生において多くを学んだうえで、それらの学んだことを一度全てすてて最初からやり直してみるという目標をもっていたのがデカルトです。
再構築を
学ぶ過程では知識が小さな塊になり、その塊の数が増えて相互につながりを持ち、一つの体系を表します。しかしそれは一過性のものであり、まさか完璧で唯一無二のものではないでしょう。最初の形は最初の学びとともにできた形に過ぎないため、できてしまった形を一度破壊してよりよい形に再構築しなければ、最初のたった一回の構築でできた体系が最高到達点になってしまいます。ベターを望む限り、破壊と再構築は必要です。
知覚と疑い
感覚を通じて得た情報はすべて疑うことができます。鮮明な感覚を感じたものが夢だったこともあるでしょう。また人間の感覚器官はほぼすべて錯覚する場合があります。視覚、聴覚、触覚、味覚、記憶にいたるまで、人間の感覚は誤解する機能を兼ね備えています。それでどうして見たものや聞いたものが現実だと言い切れるのでしょうか。
知らない
確実に知っていると主張できるものは、人間には何もありません。私たちの知識の根拠はとても不確かなものです。
それでもの自分
間違っていようと騙されていようと、考える限りはそこに自身がいます。人の意識は正確不正確の問題ではなく、考えることそのものにあるのです。例えすべての面において欺かれていても、そこには欺かれた自分がいることだけは事実です。正しくても自分、間違っていても自分は存在しますが、何も考えないし行動しないのでは、自分はどこにも存在しません。
宗教と科学
宗教と精神
宗教は精神の象徴で、科学とは対極です。どのような精神性をもつべきかを説くのが宗教です。
科学と物質
科学は物質の象徴です。物質がどのように世界を構成しているかを明らかにするのが科学の使命です。正体不明の世界を物質的に理解する方法が科学です。
14『運命』(1860)
著者紹介
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エマーソン
- ラルフ・ウォルドー・エマーソン
- Ralph Waldo Emerson
- 1803年5月25日 – 1882年4月27日
- アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。
- 超絶主義の先導者。
- アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。
- 18歳でハーバード大学を卒業
- 21歳までボストンで教鞭をとる。
- ハーバード神学校に入学しユニテリアン派の牧師になる
- 教会の形式主義に疑問を感じて辞職
- 渡欧。ワーズワース、カーライルらと交わる。
- 帰国後は個人主義を唱え、米文化の独自性を主張した。
- 1836年に超絶主義運動のバイブルとなった「自然」(Nature)を発表。
- エマーソンは「個人の無限性」が自身の中心教義であると語った。
作用と反作用
物と心
食べ物を得ると嬉しい。それはモノに対する心の反応です。着る服が無いとツライ、寝る場所があると安らぐ、それらも物に対する心の反応で、人間の生活のほとんど全ては物と心の反応で説明がついてしまいます。
自然と人間
自然のあるがままの状態について、人間は思考し、よりよい生活環境を生み出そうとします。土地を平らにして家を建てたり、耕して田畑に変えたり、人や車が通りやすく道を整備したりします。また人間の体や心を癒す庭園のようなものも造り、精神的にも自然を人間を支えるような形に変えていきます。その一方で自然は人間の思うようにならない側面が多くあり、人間の意図をあざ笑うかのように不毛な環境を堅持して見せることも少なくありませんし、それ以上に干ばつ、冷害、水害、土砂崩れ、防風など、人間の防御能力をはるかに上回る猛威を振るうことがあります。人間は自然から恩恵と理不尽ともいえる仕打ちの両方を受け取りながら昔から生活を営んでいます。
環境と思考
人間は自然や環境に対して思考します。それは人間が自然に対して作用しようとする姿勢であり、人間が自然の猛威に耐えて生き抜こうとする知恵と工夫の生みの親となります。
まず自立
自立した人間であることを最優先すべきとエマソンは言います。社会との調和する以前に個人の責任の重さを自覚するということです。
宇宙の性質と
我を通すのではなく、宇宙の性質に協調して生きるべきです。
制限の中で
生きるとは、その時代の制限の中で自分の意思を実現していくことです。それは時代のナゾを説いていく過程でもあります。
宇宙 vs 自分
今の時代の人間は、宇宙に対して自分の重みなど無いも同然であると自覚しているでしょうか。ちっぽけな自分が宇宙に対して影響を与えるなどという傲慢を持ち合わせてはいないでしょうか。
家と束縛
家は住む人の魂を閉じ込めます。人間は安定した生活をするために築いたものに、自身の魂さえも幽閉してしまいます。職に付けば職があなたを閉じ込めます。何かを専門に学べばその分野に思考が閉じ込められます。
自分を作る
今の自分を作っているいるものは、過去からの流れであり、その流れの中に立つ自分自身の思考です。自分を白紙に戻して新しいことを始めるのは、過去から続く自分のありようの系譜をそっくり否定してしまうことです。しかし流れを否定したところで、その流れの中で得たものは消えたりはしません。人が得たものいくつかを、新しい流れを作って乗るための浮き輪や命綱として活用することは可能です。
運命 vs 運命、摂理 vs 意志
仮に自分が70才で死ぬ運命なら、逆に70才までは何をしても死なないことになります。運命に呪われ祝福もされ、だからこそ人間は自分の意志を行動で発揮することができます。運命には運命で対抗できるという事実が、人間が摂理に対してつけ入る隙なのです。
運命という書物
運命が定められたものだとしたら、書物や物語と同じということになります。そこに何が掛かれていてどういう結末になるのかは読んでみないと分かりませんし、結末を読者が変えることとは確かに出来ません。しかし読者は運命という物語に触れて感情を湧きたたせることはできるし、それを他者に伝えることができます。ストーリーが変えられないからといって、無意味で無価値ということには全くならないのです。
運命というブラックボックス
原因が分からない時にも、運命という表現が使われます。運命の正体が分かりさえすれば、対処できる可能性があります。人間の知恵が届かずあきらめる時のセリフが運命ともいえます。運命とあきらめは時に同義語として使用されます。
品性が運勢
ある人間の運勢は当人の品性の結実だと、エマソンは言います。運ではなく品性でその人のたどる道が決まります。
協力者へ
自己は世界に対して取るに足りないちっぽけな存在ですが、世界は人間に協力を求めています。個人は一個の主体であることを止めて、開示された世界の協力者になることができます。
15『教説と手紙』(紀元前3世紀)
著者紹介
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エピクロス
- Επίκουρος
- Epikouros
- 紀元前341年 – 紀元前270年
- 古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者。
- エピクロス派の始祖。
- 快楽主義
- 現実の煩わしさから解放された状態を「快」とし、人生をその追求のみに費やすことを主張した。
- 後世、エピキュリアン=肉体的な快楽主義者という意味に転化してしまう
- エピクロス自身は精神的快楽を重視し、肉体的快楽をむしろ「苦」と考えた。
幸福になるには
幸福になるにはそのために必要なものについて真剣に考えなくてはなりません。
現世の幸福
死後の幸福ではなく、生きている間の幸福が大切です。
頭の中の現象
世界で起こることや自分自身で感じることを、誤って真理として解釈することを避けます。感情的に湧き上がる頭の中の現象を世界の真理とつながっていると考えないようにします。
最小単位は
物質を分解していくと最小単位に行き着くという考えは捨てます。最小の単位を突き詰めていけば、最終的には無に限りなく近づくからです。物質は状態であって化合物ではありません。
事実の取捨選択
複数の相反する事実があるとき、自身の都合や好みで事実を取捨選択すれば、ご都合主義の物語をでっちあげることになります。
幻想からの解放
幸せになるために幻想から脱出します。幻想に心をかき乱されず、平静に生きることが幸福であることです。
脳と利き手
利き手ではない方の手は不器用です。利き手は器用に動きますが、それをまねようとしても利き手でないほうの手はやはり不器用です。利き手は主体的に動きます。動きたいように動き、そうできなかった場合はストレスを脳に送って改善を求めます。脳は工夫を利き手に返して改善を提案し、利き手は改善を実行します。利き手が満足するまで動きは脳を仲介して改善されつづけ、やがて利き手は満足な動きを得てその結果を感覚として脳に保存させます。その後は必要に応じて保存した動きの結果を呼び出して、利き手に満足のいく動きさせます。この流れがあるがゆえに利き手は利き手になります。利き手ではないほうの手が利き手をまねようとしても、脳を相談役に立てて試行錯誤しないので、いつまでたっても利き手にはなれません。
思考と結果
よく考えて行動しても結果が良くないことはあります。逆に運が良ければ短絡的な行動でも良い結果につながるでしょう。しかし結果でとらえるとその媒介の運に振り回されることになります。というのも、人間には因果関係が明確に理解できないので、結果を重視するということは必然的に運頼みの行動になっていくからです。それはまるでギャンブルにのめりこんでいく人間の姿そのものです。
魂の平静こそ
魂の平静こそが幸福です。安らぎを与えるものに囲まれるようにして生きる工夫や選択をしていけば、おのずと幸福に近づいていきます。
16『言葉と物』(1966)
著者紹介
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フーコー
- ミシェル・フーコー
- Michel Foucault
- 1926年10月15日 – 1984年6月25日
- フランスの哲学者、思想史家、作家、政治活動家、文芸評論家。
- 権力と知識が社会制度にどう使われるかを論じる。
- 1984年、道半ばにしてエイズで死去、57歳。
エピステーメー
エピステーメー、別名、実定的無意識。その時代に生きる人が無意識に持っている世界の見方を指します。
流れは幻想
人間は直線的、連続的な思考を好みます。歴史の解釈が代表例で、まるで歴史は一つの大きな流れでできているとい言わんばかりです。しかし世界の動向は雑多な事情を複合した混沌の中から絞り出されるもので、方向性をもって進むものではありません。単に歴史を振り返った時にどこからどう進んできたのかが見えるようなきがするだけです。時代のエピステーメーは、次の時代のエピステーメーとは別物です。
時代とは
メインテーマが変われば時代が変わります。よく時代おくれだとか、時代は変わったとか聞きますが、そもそも時代ってなんでしょう。令和とか平成とか昭和とか、年号だったりするようですが、時代の変わり目は誰かが決めるものではありません。つながりのない何かに支配された世界、パラレルワールド、テーマパークみたいなものでしょうか。
秩序の内在
秩序はそのものの中にすでに存在します。外から割り当てるものではなく、そのものの本性を表すときに秩序もまた生まれます。もしも何かに秩序をあてがったとしても、そのものは秩序に従うことはできません。
社会と信仰
どんな社会であるかは、その社会の人々が何を信じていたかで決まります。どんな社会であるかを知りたいなら、大衆が何を信じているかを知ることです。
水平の理解
一定の基準で理解を広げていくのが水平の理解です。例えば会社員として働くときに自分の役割を理解したり会社の利益になる活動が何かを考えます。それは会社員という基準で世界を水平に理解することです。
垂直の理解
概念上の理解には上下があります。人間を細胞の塊だと認識したり、理性で欲求を制御しながら活動する動物だと解釈したり、理解の上下のパラレル、レイヤーが存在します。動物としての人、人間社会における人、指導者や崇拝の対象となる人など、さまざまな人のあり様が考えられます。
抽象化と新時代
現在普及している概念はやがて抽象化されさらに上位の抽象的概念へ変化します。それは思考の深化であり、あたらしい時代のはじまりです。
17『ウンコな議論』(2005)
わずか数十ページの短い本。プリンストン大学の道徳哲学の教授であるフランファートがウンコな議論の正体を明かします。
判別できますか?
ウンコな議論は世の中にはびこっていますが、それをそれとして判別できないと、あなたも私も結局ウンコな議論に巻き込まれる犠牲者になってしまいます。
おためごかし
- 聞き手に誤解させる言い方
- その誤解が話者にとって都合が良い言い方
- 印象を操作する
細部に宿る
良い職人は、使用者が気づこうと気づかまいが、細部を正しく制作します。良いものを作ることを心がけているのであり、評価を効率よく得ようとしているわけではありません。
雑こそウンコ
雑であることは職人魂の対極に位置します。雑な比喩表現などはウンコな表現です。
ウソは高等技術
ウソは真実に対抗するもので、信じさせるには高い技術が必要になります。ウソは安易に口にするとすぐにばれてしまいます。
ウンコは自由
ウンコ議論の名人がいるとしたら、その人は一種の芸術家です。美的センスが高い人で、自由に創造性を発揮しながら聞く人をひきつけます。ウソをつく必要も真実に縛られることもありません。真贋とは最初からちがう世界の存在で、言葉の個展を開いて人気を博すような人です。
ウンコの危険性
ウソであれば真実に照らして成敗されるでしょう。しかしウンコ議論は最初から真贋とはねじれた立ち位置にいます。反証、検証が不能な立場で自由に議論が展開されて歯止めが効きません。
あふれるウンコ
たとえばテレビ番組のコメンテーターが専門ではない分野で意見を述べるときがそうです。知りませんと言う代わりに述べられる、事実に基づかない意見はウンコな意見の代表格です。
あきらめの誠実さ
真実にたどり着くのは容易ではありません。少なくとも毎回真実だけを口にするのは無理があるでしょう。真実に基づかない意見を述べることが増え、それを聞いても真実であるのか確かめることが減り、やがてそれらが普通のこととなり、ついには真実を求めなくなります。代わって求めるのが誠実さであり、愛想のよさという人間関係の潤滑剤になります。つまりは楽に走る、ということです。
自由意志はあるか
遅れる意識
脳が行動を決断したあとに意識するのであって、意識してから行動を決断しているのではありません。私たちは瞬時の決定を数舜遅れて意識しているだけなのです。
私の支配者は
私が何を考えるのか、決定しているのは私でしょうか。確かに考えているのは私ですが、その考えていることを考えるように指示したの誰でしょう。私はそれを考えなさいと全て指示しているわけではありません。大半はむしろ自動的に思考されているのであり、まるで全自動の思考回路が自立的に稼働しているようです。私を支配しているのは果たして本当に私なのでしょうか。
選んでいない
欲求は本人の意図には無関係に発生します。自分の意識の外からやってきて欲求となり、行動につながります。私たちは自身の欲求を選んではいないのです。
何をすると決める?
人はすると決めたことを実行することができますが、何をすると決めるか自体を決めることができません。まるで神のお告げであるかのように、ふとひらめいて何かをせねばと思うだけなのです。もしも他人にナゼそうするのですかと問われても、そうするしかないように思えるからと答えざるをえません。
差出人不明の郵便
人は意図して行動しますが、その意図がどこからくるのかはしりません。差出人不明の郵便を受けとるようなものです。中を開けると出てきたものに反応して何らかの行動を選択します。それを使って何かをしたり、何もせずに捨てたり、開封せずに放置するかもしれません。それでも、なにかしらの郵便物が届いたほうが楽しいような気もします。あまりむやみに届くとうっとおしいかもしれません。
自分はナゼこうなった?
差出人不明の意図を受けて私たちは反応し行動し、結果、自我が形成されていきます。今の自分がなぜ今のようになったのか原因を突き詰めていくと、原因不明という結論がでるはずです。誰かのせいにすることはできるかもしれませんが、その場合でもその誰かがなぜそうなったのかは類推の域を出ず、やはり原因不明ということになるでしょう。
原因は探すよりも作ること
今の自分がナゼこうなったのか分からないとしたら、今の自分を分析しても根拠がないことになります。因果関係が証明できないなら説明や解釈は無意味です。自分について何かできることがあるとすれば、これからどうしたいか、どうなりたいかだけです。どうすればなりたいようになれるのか、その仮説を立てて実行し、自己実現がかなうまで試行錯誤するしかありません。
原因は、探すよりも作る方がいい。今の自分がナゼこうなのかを考えるよりも、なりたい自分にどうしたらなれるのか、考えて実行するほうが良いです。例えたくさん失敗するとしても、思い描く自分になる原因を今、作り始めるべきです。
受け身でしかない
人は主体的に動いているつもりでも、何かに突き動かされて動いているにすぎず、そこに本人の意志はありません。意図も思想も思考も選択も行動も、得体のしれないものからの指示によるものであり、実行している私たちは受け身で行動している上に、能動的に活動していると後付けの理由をもって解釈しているのです。
行為が人
人の人格は行為の結果の集合と見ることができます。人は何かを知覚し、知覚したものについて思考し、思考にともなって感情が湧き、感情に突き動かされて行動します。例えば何かを見聞きして考えたり感動して行動する、ということです。逆に行為からさかのぼれば、何かをしている人の思考や感情を類推でき、何を見聞きしてきたかが想像できます。人の行為はアウトプットであり、複数の、時には多数のインプットがあったことを見て取れるのです。
後付け
人の行為はプロセスを経た結果のアウトプットですが、そこに自由意志はありません。しかし自分の意志で行動したと思わなければ誰か他人に何をさせられたことになってしまいます。自分の行動に不快感をまとわりつかせないためには、あくまで自分の意志で選択して行動したと思いがるのが人情でしょう。そこで理由を後付けして、自分はこのように考えてこの選択肢を取ったのだと後付けの理由を捏造し、自分をだまして納得させるのです。幸福であるためには自由である必要があり、自由であるためには自由に選んだという解釈が必要なのです。
退職を選ぶ
会社を中途退職するとします。それは本人の意志なのでしょうか。もちろん退職を申し出たのは本人なので、自分の意志で退職するという事実を誰も疑わないことでしょう。しかしその人は仕事を続けるという選択肢を選ぶことはできたのでしょうか。実際にどう考えても仕事を続けられないと思える状況だったのではないでしょうか。退職を選んだのはそうせざるを得なかったからであり、そういう状況に自分が流れ着いたのは自分の意志ではない部分が少なからずあったでしょう。もっと会社がこうであれば、上司がああであったら、同僚が、部下が、仕事の量や質がと、いろいろな面で続けられない状況であったに違いありません。退職する人は、退職する運命にあったのです。そこに自由意志はありません。唯一の救いは、その運命を自覚して、その運命にのっとった選択をしたということだけです。例えば交差点で信号が赤になったから止まり、青に変わったから発進したという程度のものです。目的地すら選ぶことはできないかもしれません。せいぜい、通るルートや走行速度、周囲との車間距離などを微調整できる程度です。それを自由意志というのなら、それで満足すればいいのではないでしょうか。退職は、最初から約束されていた目的地、ないしは通過点だったのです。
運命と人格
何事も運命で経過や結果が決まっているとしたら、そこにまつわる人間の感情や円選択は無意味なのでしょうか。何を考えてもムダ、何をやっても結果は変わらない、といった虚無感、ニヒリズムに支配されしまうだけでしょうか。運命があると理解したとき、人間はそれでも自分にできることを探すはずです。自分が生きていることに何かの意味を見いだしたいなら、運命に流されて終わるのではなく、すこしでも途中経過を変えることで周囲に関係するであろう他の運命に影響を与えることができるかもしれません。それは自身では確かめようもない他者の運命の行く末ではありますが、信仰にも似た姿勢で自分の力を運命に加えて見せたいと願うのが人の生き方だと思います。
19『精神現象学』(1807)
難解な著書として伝説的。読み解くことが小石をかみ砕くことに例えられる。
著者紹介
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ヘーゲル
- ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
- Georg Wilhelm Friedrich Hegel
- 1770年8月27日 – 1831年11月14日
- ドイツの哲学者
- ドイツ観念論を代表する思想家。
真理とは全体だ
対立という発達段階
哲学には様々な立場があり、互いに否定し合うことも珍しくありません。真理がもしも一つだけだというなら数ある哲学の流れは互いにつぶし合うバトルロワイアルを戦っていることになります。しかし仮に真理が一つだけだとしても、たった一つの哲学の流派がそこにたどり着くものでしょうか。ヘーゲルは相争う数々の哲学者のそれぞれが真理の一部であり、互いに影響し合うことで一つの真理へと昇っていくのだと考えました。
歴史は精神の現象
人間の精神が行為として形を成し、それが積み重なって歴史を作ります。歴史は人の精神が社会的に痕跡を残した結果です。
分野を作らない
知識には分野があり、知識体系は分野の中で組み上げられます。当然他の知識体系も数多く存在し、その中には対立し矛盾する知識体系もあるでしょう。真理にたどり着くには分野を作ってはなりません。知識の体系はその構築者が語りつくせるように仕上げられたものであり、矛盾する要素を排除して作られます。そのような排他的な体系がどうして全体に通じる真理を説明できるでしょうか。分野を作り、他の分野との間に仕切りを作ることは、快適な空間を学者が作る行為であり、真理からは引きこもって隔絶する行為です。
物と物以外
物質的なものにのみ捕らわれる人もいれば、物質以外のものに捕らわれる人もいます。お金にうるさい人や信心深い人などがそうですが、互いに相容れないところがあります。物に執着すれば物しか見えなくなり、物以外に心を奪われてもそれしか考えられなくなります。形があろうとなかろうと、なるべく全体的にとらえて、何かに酔った状態にならないよう注意したいものです。
分析と統合
学問はどんどん細かい部分に分割しながら理解を進めたあとに、元通り全体をまとめて理解しようとする過程をたどります。それは例えると、長い物語の一節一節をの意味を深く考えた後に、物語全体のいわんとするところを考察するようなものです。
不幸と壁
人が不幸になるのは狭い了見の中に閉じこもるからです。幸福になりたいのなら自分と周囲をより広く一つのものにすることです。自分がより大きな全体の一部であると感じる時、人は幸福を感じずにはいられません。
二分法:誤解と不幸の源
二つに分けて、どっちだ?という理解の方法はコワい。正解と不正解、自分と他人、正義と悪。これこそ誤解と不幸の源。でもこの理解方法が一番カンタン、といういうか、コレ以外の理解が認められていないような世の中です。
認識と幸福
自分の欲求を満たすだけでは、幸福にはなれません。個人が全体の一要素であると理解することで、個人よりも大きな存在への貢献をはかり満足をえることができます。共同体であるという世界の認識が、個人の価値観をより普遍的なものへと変化させ、個人を幸福へと導きます。
必然性の一部
私たちは必然性の一部分にすぎない存在です。個別性を有するという願望は、世界のありように照らした時に打ち砕かれ、幻想にすぎないと実感します。しかしそれは絶望ではなく認識の成長段階の一つであり、砕かれた個別製という幻想は、普遍性、必然性の一部へと進化をとげ、私たちの生きる道をより明るく照らしてくれます。
すてる運命
個別性を放棄することは人の運命であり、成長過程です。個別性とはつまり自己の欲求や快楽を追求する性質であり、それらをより普遍的で必然的なもののために捨て去ることになるのは正常な進歩をとげる人間の道と言えます。
弁証法
- 矛盾を解消し高い次元へと発展する働き。
- 哲学用語だが「矛盾の解消」「対立項の折衷」などの意味で用いられることも多い。
- ヘーゲルによって定式化された弁証法、及びそれを継承しているマルクスの弁証法を意味することがほとんどである。
- 世界や事物の変化や発展の過程を本質的に理解するための方法、法則とされる
- 弁証法は、哲学史においてヘーゲルの登場よりも古く、ギリシア哲学以来議論されている
- 「弁証法=ヘーゲルの弁証法的論理学」としてすべてを理解しようとするのは誤りである。
- 弁証法は、元来哲学の内部で問題とされ、哲学固有の考え方、或いは哲学的論理というものであった
- 今日では、ほとんど常識化され、無造作に用いられる。
弁証法(的)論理学
- ヘーゲルの弁証法を構成するものは、ある命題(テーゼ=正)と、それを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つである。
- 全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。
- 生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。
- 最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)される。
- アウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた統合されて保存されている
- ドイツ語のアウフヘーベンは「捨てる」(否定する)と「持ち上げる」(高める)という、互いに相反する二つの意味をもちあわせている。
- カトリックではaufhebenは上へあげること(例:聖体の奉挙Elevation)だけの意。
- ソクラテスの対話と同じように、ヘーゲルの弁証法は、暗黙的な矛盾を明確にすることで発展させていく。
- その過程のそれぞれの段階は、その前の段階に暗黙的に内在する矛盾の産物とされる。
- ヘーゲルは、歴史とは一つの大きな弁証法だと認識した。
- すなわち奴隷制という自己疎外から、労働を通じて自由と平等な市民によって構成される合理的な法治国家としての自己統一へと発展する「精神」が、実現していく大きな運動だと認識した。
マルクス主義における弁証法
- カール・マルクスは、世界は諸事象の複合体ではなく諸過程の複合体であることを指摘した点をもってヘーゲルの弁証法を高く評価している
- ヘーゲルの観念論による弁証法における観念の優位性を唯物論による物質の優位性に反転させることで、唯物弁証法(弁証法的唯物論)またはマルクス主義的弁証法が考え出された。
- 世界は観念的な神や絶対知に向かって発展していくのではなく、物質、自然科学に向かって発展しているものである。
- この弁証法を歴史の理解に応用したものが史的唯物論(唯物史観)であり、この見方はマルクスやエンゲルス、レーニン、トロツキーの著作に見て取ることができる。
- この弁証法は、マルクス主義者の思想の核心的な出発点となるものである。
- エンゲルスは『自然弁証法』において、唯物論的弁証法の具体的な原則を3つ取り上げた。
- 「量から質への転化、ないしその逆の転化」
- 「対立物の相互浸透(統一)」
- 「否定の否定」
- これらがヘーゲルにおいても見られることをエンゲルスも認めている。1は、量の漸次的な動きが質の変化をもたらすということをいっており、エンゲルスは例えば、分子とそれが構成する物体ではそもそもの質が異なることを述べた。2と3に関するエンゲルスの記述は少ない。しかし、2はマルクス主義における実体論でなく関係論と結びつく内容であるといわれる。つまり、対立物は相互に規定しあうことで初めて互いに成り立つという、相互依存的で相関的な関係にあるのであって、決して独自の実体として対立しあっているわけではない、ということである。3はヘーゲルのアウフヘーベンと同じである。エンゲルスによれば、唯物論的弁証法は自然から弁証法を見出すが、ヘーゲルのそれはちょうど逆で、思考から自然への適用を行おうとする。
- エンゲルスは、ヘーゲルの弁証法の正当性は「細胞」「エネルギー転化」「ダーウィンの進化論」の3つの自然科学的発見によって裏付けられたと考えた。
意識の成長
意識は成長すると、それまでに作り上げたものを破壊し始め、同時におより進んだ意識を構築し、それ以前に中心的であった意識をおしのけるものです。
20『存在と時間』(1927)
著者紹介
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ハイデッガー
- マルティン・ハイデッガー
- ドイツ語: Martin Heidegger
- 1889年9月26日 – 1976年5月26日
- ドイツの哲学者。ハイデガーとも。
- 独自の存在論哲学を展開した。
- 1927年の主著『存在と時間』で存在論的解釈学により伝統的な形而上学の解体を試み、「存在の問い(die Seinsfrage)」を新しく打ち立てる事にその努力が向けられた。
- 20世紀大陸哲学の重要な哲学者の一人。
- 1930年代にナチスへ加担したこともたびたび論争を起こしている
- ハンナ・アレントの師匠。
存在する、とは?
存在する、という言葉の意味は、なんの疑問もなくほぼすべての人に受け入れられるでしょう。しかしハイデガーは、存在の意味は闇に覆われていると言います。存在する、ということはどういうことなのでしょうか。
自己が存在する、とは?
世界の中に自己が存在するということの意味を、考えたことはあるでしょうか。普通は自分が存在することなど分かりきっているので疑問の余地はありません。しかし世界の中に自己が存在する
生きるとは
不安と闘いながら自分本来の姿を模索し、自分がいるべき場所にたどり着こうとすることが、人が生きるということです。
投げ込まれた状態
物心がついたとき、すでに自分は存在しています。なぜ自分はここにいる、などと考える余裕もなくただ無心に生きていくのが原初の人間の生です。世界にわけもなく投げ出されることが生まれるということです。
産声は泣き声
赤子が生まれて泣くのはなぜでしょうか。もちろん生物学的には自然に順応するためといった機能的説明がなされるのでしょう。しかしもしも赤子が生まれるということの本質を直感的に理解しているのだとしたら、きっと泣く理由は苦しみと死が約束されたからではないでしょうか。もちろん楽しみもあるかもしれませんし豊かな人生を謳歌できる可能性もありますが、それは運が良い場合の話です。対して苦しみと死は生まれた時点で不可避的に決定されています。なんの苦しみもなく死を迎えるということは、生を受けた以上はありえないことなので、赤子はそれを嘆いているのかもしれません。
読書感想文が苦手
読書感想文が苦手という人は多いでしょう。でもそれは当たり前のような気がします。本を読んで感じたこと文字化して、他者にすんなり理解してもらえるスキルなど、なんの訓練もなくできるとは思えません。読んで、感じて、文字化して、それを読んで、言いたいことが表現できていて、それが他者に理解してもらえそうな文章を書くことは、これら一連の作業を何度も繰り返していった先に獲得できる技術です。
生きる目的
自分が生まれた理由は分からずとも、生きる目的は自分で決めることができます。人間には言葉を発し、行動を起こすということができます。それは世界に対する自己開示であり、自分自身の可能性の探求を行う術でもあります。
湧きたつ疑問
自分はなぜ生まれたのか、なぜここにいるのか、今何をしているのか、困惑ともいえる疑問の森の中で自分の行き先が見えなくなりがちなのが人生です。その迷いと同居するの使命感からくる焦りです。何かをしなくては生きる意味がないという脅迫されるかのような使命感がつねに背後に付きまとうことで人生に焦りを感じます。怠惰な人生を謳歌する覚悟を決めたとしても、やはり自分はなんのために生きているのかという疑問が消えることはないでしょう。
感情が中心
感情は軽視されがちな移ろいやすい内的運動です。しかし人間である限りは常に何かを感じては感情を動かされるはずなので、結局は感情の動きがその人の人生の中心になります。いくら感情を否定したり軽視したところで、人が感情から逃れることはできません。必然、生きるということは自分の感情というナビゲーターとともにその道を進んでいくことです。感情に従って進むもよし、逆らうもよし、それでも、生きている限り感情を捨て去ることはできないし、捨てるようとあがいたところでそれは自分の影を振り切ろうとするようなものです。目を閉じれば見えなくすることもできるでしょうが、それで感情との縁が切れるわけではありません。つまり、はじめから自分のすべての感情と付き合う覚悟が必要なのです。
知性の上司
感情は知性の上司です。知性が感情を制御する立場にあるのではなく、感情に端を発して知性が育ちます。知性を導くのも感情なら、知性を承認するのも感情です。何かを良いと判定する基準は感情にあるからです。
知性と感情
知性が個人の所有するものなら、知性は他者と共有するものです。知性の集合的概念が理性とも言えます。つまり理性は個人の枠をはるかにこえる巨大な知性です。個々の中の神様とも言えるかもしれません。なので理性と感情を対比させるのはおこがましい気がしますが、感情を正しく発露させる指南役としての理性なら合点はいくのではないでしょうか。感情の正しい発露とは、つまりは選別して表現される感情です。見せるべきでない感情と見せるべき感情を、理性が選別して表現させることが正しい感情の発露です。
気分が上位者
気分が判断を左右します。良い気分になれる選択をして、悪い気分になる選択肢を避けるのが普通です。知性や理性で選択しているわけではなく、あくまで気分で選択しているし、気分で決めているのです。
気分の機能
気分とは調和の物差しです。気分が良いとは周囲と調和できていることを示します。自己を調和させるための指針が気分です。
群体として生きる
人間が群体として生きるものだとしたら、個人の幸福はそれが所属する群の中の一個体として機能することです。自己実現や内省は個人の内面に主眼を置いた活動と思考であり、群体として生きることを忘れた行為であるため、幸福からは遠ざかります。
社会はジグソーパズル
社会を大きなジグソーパズルだとすると、個人はその1ピース。ピッタリはまる場所を見つけるのは一見不可能のようにも見えますが、ちゃんと全体像に照らして考えれば、あるべき場所を探し当てるのはそんなに難しくないのかもしれません。また、ぴったりはまった時にこそ、個人の存在には小さからぬ意味があると実感できるはずです。
不安がエンジン
不安は生きていくかぎり人につきまとう感情です。しかし不安を抱えて生きるからこそ自分のあるべき生き方がなんなのを模索します。もしなんの不安もなければ、人は怠惰に生きるしかないでしょう。悲しいかな、不安は人を突き動かす原動力なのです。
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